Several Seven
Several:いくつかの,数名[数個,数度]の 《★【比較】 a few よりは多く many よりも少ないという気持ちを表わし,おおむね 3,4,5 ぐらいの数を意味する; a few は「少数」を含意することがあるが,several にはその含意はなく,また some のように漠然とした感じはない》.
Seven:限定用法の形容詞 7 の,7 個の,7 人の.
【七日間の記録】
忘れることはないので不備忘録。
- 日曜日-
おかしなことに、世間は始まりと言ったら月曜日らしい。何の始まりかと言ったら、それは一週間の始まりの他ない。
一週間の始まりが月曜日であってたまるか。何が楽しくて苦痛な月曜日を始まりと言わねばならんのだ。
日曜日を始まりとして、二十四時間という長い時間をかけ、いや、日曜日で更に春の陽気に現を抜かした一時間もいるかもしれない。
一時間経つのに六十三分かかる不良品の一時間だ。そんなこともあればと淡い期待を胸に、ゆっくりと、しっかりと一日かけて助走をつけて、
楽勝に月曜日を駆け抜けたいではないか。なあ、そうだよなあ、、と、気付いたら涎で枕を濡らし、きっかり二十四時間で役目を終えた日曜日。
- 月曜日-
僕らは確かにあそこにいた。シロクマも鳥肌を立ててマフラーを巻くような寒い日に、冷たい手と生温い手を、お互いの温度と気持ちとなんやら心の更に奥にあるものを掻き出すように握り合った。
極寒。肌を突き刺すような寒さの感覚以外の一切を受け入れる余地も与えない。悩みもすべて忘れられるような、いや悩む暇さえ与えられなかったのが正解か。
そんな中、いつの日か、ぎゅうぎゅう詰めの感覚器官に入り込もうと、僕の冬を忙しいものにしようとしたものがあった。何年前か、何世紀前かは忘れたが。
そいつは僕の中に土足で入るわけでもなく、寧ろ脱いだ靴をきちんと揃えて置き、ご丁寧な挨拶まで添えてきた。
「感覚器官のキャパオーバーだ」
そう告げてもそいつはにこにこと顔に皺を作り、僕の瞳を見つめていた。なんだか瞳の奥深くまで、脳内まで見透かされそうな気がした僕は、思わず目を逸らした。
- 火曜日-
桜の開花予想に、血走るくらい神経質になるお天気お姉さんも、花見の場所取りに任命されている平社員も、陽気なカップルも、もちろん僕も。等しく桜の開花を心待ちにしている。
あっ、月曜日の奴の存在を忘れている気がするが、それは春の陽気の所為にする。仕方ない。
何も言わずにただぼんやりと桜を眺めていたい。
どんなに質のいいカメラを向けても、ファインダー越しの桜は現実の桜とは色も大きさも異なる。感想を口にすると見ているものとは違ったものになってしまう気がする。
ぼんやり眺めてる桜に思いを馳せるわけではない、隣で僕と同じくぼんやりと桜を眺めているそいつが、僕の思いを独り占めしているからだ。ふとそちらに視線を移す。
いっそ桜は桜でも枝垂桜に嫉妬されて、枝に首を刈られてしまえばいいのに、
なんてその場の風情と相容れないことを、全国の桜が束になってかかっても到底歯が立たないであろう、美しすぎる横顔を見ながら僕は思った。
- 水曜日-
蝉も鳴くのをやめて自殺を図るくらいくそ暑い日が続く。僕はなるべく日陰を選びながら待ち合わせ場所へ急いだ。
額に汗が走る。暑さにやられたのか、時折、役目を果たさない睫毛の所為で汗が目に入る。この沁みて痛いのをびろんびろんになったシャツで拭うと、更にシャツはびろんびろんとし、
びろんびろんうるさいな
と、僕のだらしない身なりに拍車をかけた。
思えば、何も知らなかった頃、何も持っていなかった頃の自分は強かったと思う。
大切なものを持っていたら持っていたで失うことが不安だったし、持っていなかったら持っていなかったでどうしようもない孤独感に苛まれて不安だった時もある。
ただ、前者はどんなにもがこうが辛かろうが不安になろうが、それが例えば人だった場合、自分だけの問題ではないから、苦しいからと容易に手放せるものではない。
大切なものは時に自分を強くするが、臆病にさせることが大半だ。それを身をもって感じた僕は、少しも踏み出せなくなっていた。
持っていないことは、何かを得ようとする執着心さえなくしてしまえばそれまでだ。解決する。大切なものを守る難しさを知らない。失う怖さを知らない。
なんにでも挑戦できて、どこにでも行けそうな気がした。一人でも。いや、一人だからこそ。
最初から何も持っていない人間と、失ったから何も持ってない人間は、似ているようで全く違う。
失ったものの埋め合わせなど、同じものでしか埋め合わせることは出来ない、
僕は、目に浮かぶ、今度は汗とは違うものを、びろんびろんになったシャツで拭った。
- 木曜日-
食欲やら読書やらスポーツやらここぞとばかりに世間が推し始めた頃、
食欲なんて一年中あるわい、
と相変わらずばくばくと食べ物を口に運ぶ僕。このブレのない一連の動作は、十九世紀半ばのイギリスの産業革命期の工業技術に引けを取らない。
どちらがより機械的な動作を行えるかの大会で機械と競っても間違いなく僕は優勝している。
そんな僕に負けじと食べまくる人間がいた。いた、が、そんなのには目もくれず僕は四つ目のメロンパンを齧る。
そいつは味重視というより塩分を摂りたいだけの様に見え、一瞬目を奪われたが、駄目だ、メロンパンが美味しすぎる。
いや、そいつと食べるからメロンパンが美味しいのかもしれない。そう気付いてからの僕は早い。そいつの全てを知ろうとした。
どうやって味付けしているのか、焼き時間は、材料は、根掘り葉掘り僕は探り、探り、探った。そしてそれを守ろうと思った。
メロンパンとは僕の人生そのものだ。
だが、弱い自分を思い出しそうな感覚に陥った。僕はそいつを消してしまおうと思った。なかったことにしてしまおうとも思った。
でも僕にはそれが出来なかった。まだまだ知りたいことがたくさんあるのかもしれない。
そいつの味付けを、他のものにもしてほしくないな、
とも思った。守る理由は、それだけで十分すぎた。
- 金曜日-
ペンギンが隊になってスクランブル交差点を行き来してもおかしくないような寒さだ。もちろんスクランブル交差点は今日もどうしようもない人間ばかりが歩いてるのだが。
そして、どうしようもない人間というのは主に僕のことである。
屋根の上に変わった人形が立っている。絞首刑を執行されるみたいだ。眼前に広がる光景に少し驚きながらも、刎ねられた首は地面に落ちることなく天に舞ったのを確認して僕はまた歩みを再開した。
隣のそいつはまだ何かを口に運んでいる。かくいう僕も、口に何かを運んでいる。まあ、同じ目的を持って一緒にいるのだから当然なのだが。
一緒にいて僕は間違いなく変わった。いや、正確に言うと一緒にいる為に自分自身で意識して変わったのかもしれない。
おかしな人間だと思っていたけど、惹かれていったのは確実に僕の方だった。
この日、僕は間違いなく世界一華金という言葉が似合う男だったし、世界一華金という言葉を着こなしていた。
- 土曜日-
永遠にそれを残す為には、それが存在したという破片を世界中に撒き散らさなければならない。
永遠なんてものはないのかもしれないが、終わってしまうものにこそ価値を見出せるし、無くなるからこそ大切にしようと思える気がする。
だから全てのものに、勿論自分にも、僕らにも、何もかもに終わりが訪れますように、と、いつか終わりが来る凍星に毎晩祈った。
「月が綺麗だね」
「好きって言って」
そんなことを交わしながら、月が太陽にバトンタッチするまでずっと眺めていようと思った。
不思議なことにその日はやたらと月がいる時間が長く、照れ屋の月は時折雲に姿を隠しながら僕らを見守っていた。
同じく照れ屋な僕らは時折顔を見合わせ、月も相手の顔すらも見えないように二人で目を閉じた。
その時間が、どうしようもないくらいに大切に思えた。
不思議だと思う。弱さを知るということは強いということなんだと。今まで過ごした時間は、これからの人生を考えると圧倒的に短いはずなのに、それでもこれから先、
これまで過ごした時間の何倍も一緒に過ごせるような気がしていたし、そう思ったのはきっと僕だけじゃない。
人生なんてどうせ辛いことの連続だ。どうせ辛いなら、少しでも楽しく生きれるような人と一緒にいたほうが得である。辛い中更にマイナスな事なんかしたくもないから、何人もいる嫌いな人のことを嘆くより、好きな人を一人守る方がずっと有意義だ。
そいつが生きる意味になってから、もうメロンパンは久しく口にしていない。
次に会うことが出来るのがたとえ五十億年後だとしても、その時に会えるのがたった三秒だけだとしても、その一瞬の約束が一生を生きる意味になるような気がした。
月がいなくなるのに随分と時間がかかった。が、その分一緒に居られたから悪い気分になどならない。
後で知ったことだが、その日を担当していた時間達は、時間軸管理会社のミスで不良品ばかりが集められていたらしい。
一時間経つのに六十三分かかるあいつらだ。
なんでもないようで深く心に焼き付いた一週間を終え、僕は十二分すぎる程の助走をつけ、少しばかり後ろ髪を引かれる思いを振り払って月曜日を楽勝で駆け抜けていった。
めろん流 (1〜10)
少ないですが今まで作った短歌をまとめました。
味わい方はセルフサービスです。
【1〜10】
砂浜にのそりと落ちる数涙3秒ルール拭うのは僕
万緑の緑や緑色付いた心の闇とのコントラスト
心地良い炭酸ジュースの一口目五十円から販売中
叩きすぎて渡れなくなった石橋が三年待てよと自動工事
エビグラタンクリームチーズその他具材カリブ海から湯気立ち昇る
一夏の思い出が全て詰まってるあっという間の"あ"の中に
メロンパンにメロンは入っていないのか政治家達が国民に問う
雨の日に怒りが募る傘無し民泣くあの子には頬拭う神
凍て星がお前もいつか星になると自由と共に笑い転げる
極寒の中で咲き誇る早桜花が散ったら命を絶つね
『多面的観点とは』
「多面的観点」
普段口にする事もなく、聞いたことすらない人が多いのではないだろうか。
先ずは具体例の前に、多面的観点の定義を説明しよう。
"一つの事柄に対して、様々な角度から捉える事が出来る目(考え方)のこと"
読んで字の如くといった感じだが、これが多面的観点の定義である。
例えば、学問の一つ「数学」を挙げた時、「数学は将来必要ない。」と口にする学生が多く見受けられる。
だが、これも多面的観点の前では笑止千万、「数学者になる」「数学を用いた職に就く」という観点からすると、数学は何らかの必要性があると言える。
更に具体例を挙げよう。
Q.動物園の動物は幸福か否か。
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A.観点によるから一概には決められない。
これ迄の文章の内容の傾向から、この質問は愚問であり、答えも身も蓋もないではないかと思った人もいるかもしれないが、これこそが正に"多面的観点"なのである。
解説すると、
幸福…長生きが出来る(長生きの面)
動かずとも食料を与えられる(楽さ)
不幸…檻の中に入れられる事で自由が無くなる(行動の制限)
動物としての野性さが無くなる
このように、様々な観点があり、一概に動物園の動物が幸福であるかは断定できないのだ。
勿論、価値観によっても何が幸福であるかは変わってくる。
「「価値観とは、"何を以ってそれを価値とするか。物事の優位性"の事である。」」
ここから敷衍していくと、一般的に言われる「殺人は悪」というのも、観点によっては否定出来るのだ。
この論に面食らった人もいるかもしれないが、その反面、これ迄説明してきた多面的観点を用いると、この論に納得出来る人もいる筈だ。
勿論、倫理的観点や法律という観点から観ると殺人は悪だが、例えば「野性的な観点」から観ると、弱肉強食に逆らう事で、種として優秀な者がストレスを感じてしまう。
一方で、弱者的な観点から観ると、殺人があることで死のリスクが出てくる。
こういった観点から観ると、当然殺人は悪だと一概には言うことができない。
多面的観点から観ると、正義の反対は「悪」ではなく、「また別の正義」なのである。
これ以上は例を挙げても果てが無いので終わりとする。
日々生きていく中で、人生が理不尽に感じ、世界が混沌としたものに見えようと、そのものの一点だけに目を見張らなくてもいいのだ。
対象となるものが変わるのではなく、自分自身の視点を変える事で世界がシンプルに感じられる。
さあ、他人が感じる混沌と自分が感じる秩序の境界線の世界を何と名付けようか。
…雨が頬を強く叩き始めてきた。
生憎傘を持ち合わせてない自分が癪の種と感じる雨も、涙で頬を濡らす人からしたら、丁度涙を洗い流してくれる神の恩恵とでも感じるのだろうか。
多面的観点の力を借りて、容赦無く降り続ける雨を「神秘の水」と名付けた。
肝心な事を忘れてしまっている気がするが、それは一先ず頭の片隅に置き、滑る足元と眼前の人混みに気を遣いながら家路へと急いだ。
『最初の一歩』
「夕張めろん」として日々の所感を綴るのはTwitter以外ではここが初めてだ。
今回、自分のようなケツの青いクソ高校生が個人ブログを開設することに至った所以は幾つかある。
一つは、前述にある通り、日々の所感を綴る場として今までTwitterを利用していたことだ。
投稿出来る文章は140文字以内という制約の中、如何に上手く文章を纏められるか。
Twitterに於ける文章というのは「呟き」と銘打たれる。
自分自身Twitterを利用して4年が経つが、始めた当初は自己満足に終わる呟きが多かった。
しかし、時を経て現在は、自分の呟きを見ている「フォロワー」を意識するようになった。
「お腹が空いた。」「眠い。」
これら誰に向けたでもない、通り一遍の言葉達。
『フォロワーがいる中発信するものとしてなんとつまらないものか。』
実に単純ではあるが、こう思うようになってから、呟きの内容は段々と自己満足なものからフォロワーへの訴えかけ、そして一種のコミュニケーションの手段へと形を変え、投稿出来る文章は140文字以内という制約があるTwitterに飽き足らず、更に多くの文章を書き込める「ブログ」へとフィールドを移したのだ。
そして二つ目、自身のTwitterアカウントである『夕張めろん[@tttlov]』内での呟きの内容が、一部のフォロワーに反響があったことだ。
「あの呟きの内容奥が深いね」「あの呟きの内容ってどういう意味?」
このような感想や問いかけを頂いたことをきっかけに、反響のあった呟きを引用し、それらを敷衍してブログに綴ろうと思ったのだ。
たった30人弱のフォロワーの更にその一部の人という極僅かな人の所感ではあるが、これに応えない理由も見当たらず、また、前述した一つ目の理由もある為、何らかの成果を上げられることを期待している。
これらが、今回個人ブログを開設することに至った所以である。
勿論誰かに読んでもらうことを目的にしている以上、なるべく伝わりやすい論理的な文章を書くように心がけるつもりだ。
しかし、「論理的な文章」とは一体どのようなものなのか。
古代ギリシャの万学の祖であるアリストテレスが成し遂げた成果の一つに、「論理学」というものがある。
現在でも使われる簡単な三段論法を例に挙げよう。
前提一「私は人間である」
前提二「全ての人間は必ず死ぬ」
結論A「故に私は必ず死ぬ」
AはBで、かつBはCである。故にAはCである。
このように、二つの要素から結論を導き出す。
云わば、絶対にそう成らざるを得ないものを生み出すのだ。
論理的な文章とは、全て三段論法から成る文章であると一概には言えないが、分かりやすい文章であることには違いない。
このように、短絡的な文章ではなく、筋道だった文章こそが文字通り論理的な文章と言えるだろう。
勿論これが読者にとって一番伝わりやすい文章ではないのかもしれない。
要素を抜きに結論だけを述べることが一番の近道であるかもしれないからだ。
それについては日々読者の反応を窺いつつ、自分の言語能力を高め、より良い伝達方法を見つける為に邁進する所存である。
一先ず、伝わりやすい文章を書くことを心がけると前述したのにも関わらず、ここまで全く推敲されておらず、レトリックのレの字も見えない拙い文章に付き合ってくれている読者に感謝する。
閑話休題。
当ブログでは、より良い文章を発信すると共に、有用性のある情報も読者に発信していこうと思う。
自分が普通の人よりはその道に詳しいと自負のあるものは「恋愛」の分野だ。
「恋愛心理学」「恋愛哲学」
このように、恋愛と一口に言っても様々な分野があるのだ。
恋愛の在り方について薫陶すると言うと聞こえが悪いが、少なくともその情報に正当性を覚え、実践させられるようなものを与えられる自信がある。実際に恋愛に関する所見を綴るのは、次回のブログ更新の時に譲るとしよう。
その他諸々、自分なんかが語るのも烏滸がましい様なものもあるが、それでも一切世迷言無しで読者の価値観に訴えかけていこうと思う。
その結果、少しでも読者の心を揺さぶり、自分と読者双方の価値観として共有することが出来れば、このブログの存在意義が垣間見えるのではないか。
そんな日が来ることを期待して、今回は筆を置くことにする。